Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

 

・ベマチベット人(白馬藏人) ・

 

 

 白馬チベット族は、長いあいだ、原生林のなかだけで暮らし、外の世界とはほとんど無縁に生きてきた「桃源郷にすむ人びと」であった。新中国成立直後の一九五〇年代、大部分の白馬チベット族は、漢語はむろんのこと、周囲のチベット族の言葉すら話せなかったとといわれる。かれらは北にチベット族、南に漢族という二大民族にはさまれながら、もっとも奥深い土地にたどりついて、外部から隔絶された社会をっくりあげていたのである。

 しかもかれらはチベット族に属するとされながら(1951年の政府による「民族識別」調査以来一、周囲のチベット族とさえも交流することが稀であった。というよりも、もともとかれらはいわゆるチベット族とはかなりことなった風俗習慣をもつ人びとである。白馬チベット族には、チベット族の特徴とされるチベット仏教を信じ、ツァンパ(炒り麦粉)やバター茶を飲食し、乳製品を利用するという習慣がないし、言語の面でも、チベット方言のひとつとみるよりも、むしろおなじチベット・ビルマ語派のチャン語群にちかい点が指摘されつつある。つまりは、白馬チベット族と呼称するよりも、白馬族、白馬人としたほうが、かれら民族の来歴にはふさわしい。

 じつは、この白馬人はチベット族がこの地にくる前から、住んでいた民族ではないかと考えられているのである。むしろかれらは、もう少し西の岷江流城の山間地にすむチャン族と似ており、一説には、古代の民「氏羌」(『漢書』西南夷列伝)の「氏」の末裔ともいわれている。

 さらにかれら一身の意識からいえば、周辺のチベット族は、おなじ民族であるとは考えていない。それはチベット族も同様である。

 白馬人にとってのチベット族とは、北の中原地区からおしよせてきた侵入者である。だからたとえおなじ村に住んでいるような場合でも(南坪県)、かつては互いに通婚することはなかったし、それぞれの伝統のまつりにともに参加することもなかった。

 とくに婚姻においては、白馬人はかならず白馬人どうしで相手をみっけなければならないとされていた。チベット族や漢族といった外部の者との結婚は恥であり、万一そうなったら、本人や家族だけでなく、親戚にいたるまで周囲の非難をうけ、白馬人社会でのいっさいの関係を断たれてしまったという。

 ではもうひとつの周辺民族である漢族に対しては、どのような感情があるのだろうか、白馬の口頭伝承には次のように伝える。それは、白馬人がなぜもとのゆたかな土地から寒冷な山奥に追われたのかという話である。

 むかし、白馬人の村は南の江油県一帯の平原にあった。が、三国時代に、蜀軍を率いる諸葛孔明の機略に敗れ、北に追われた、そして明代はじめには、明朝の領土拡張政策をうけて居住区をさらに北の山間部へと制限された。

いまの平武県城から北へ約10キロの地点を居住の東端と定められて、その境界を越えて往来することを禁止されたのである。また民国時代には、軍閥や国民党にたびたび攻められ、年来の飢饉も加わって多数の白馬人が死に、総戸数が500あまりにまで激減した。平武に残る「殺氏坎」は、当時の漢族による虐殺の事をいまに伝えるものである、という。結局漢族も、北から攻めてきたチベット族同様、白馬人にとっては南からの侵入者であったといえる。そしてその結果、白馬人は地域的にますます縮小、孤立へとおいこまれ、「桃源郷の人びと」となっていったのである。

 しかしその反面、白馬人の社会のなかでは、おなじ共同体の一員としての意識、いいかえれば白馬人としての民族意識がきわめて強くなっていったものとおもわれる。かれらにとって白馬人であることを示すもの、たとえば白馬語や冠婚葬祭における習慣、年中行事、日常の衣食住にいたるまでのもろもろが、存在そのもののあかしであり、守るべきものであった。それは周囲との接触が日常的となったいまも基本的にはかわらない。またとくにチベット族や漢族との共住がかなり長い南坪県においては、芸能や服飾などに大きな影響をうけながらも、人びとの白馬人としての意識は、かえっていっそう強固な感じをうけた。

 

 

写真は雑誌「今日四川」による

 

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――――BBC世界の屋根探険会 烏里 烏沙 制作・2003年3月8日――――