Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

 

・モンゴル(蒙古)族 ・

 

 モンゴル語群の民族のなかでは、モンゴル族が中心の集団だといえる。総人口は480万2407人(1990年)で、中国の少数民族のなかで八番目の人口を有している。歴史的に見れば、その活動範囲はアジア・ヨーロッパを横断し、13世紀には強大な兵をあげて中国を統一し、兄王朝を築いた。

 そして、100年に及ぶ長い歳月にわたって中国を統一しつづけ、近隣のダブール族、トゥー族、トンシャン族やボウナン族の諸集団の言語や文化にも大きな影響を与えた。モンゴル族は放牧をしながら、一年の大部分の時間を馬上ですごすといわれ、そのため、騎馬民族の誉れが高い民族である。モンゴル族の発祥の地は内モンゴルで、現在のアルグン河流域のホロンバイルの位置するところである。当時もうこしついの人々は蒙兀室葦と呼ばれ、のちに蒙兀室葦部族の大部分の人々は、鄂嫩河源・肯特山東南まで西に移動し、当地のチュルク語群居住民との交流が少しずつ深まり、それが多くの部族集団に広がっていった。それにともなって、生業形態も一つの遊牧・狩猟民から草原遊牧民と森林狩猟民の二つの集団に大きく分かれていった。

13世紀初め、モンゴル諸部族集団は部族連盟をつくり統一して、モンゴル語を使用し、やがてウイグル文字の表音字母にモンゴル語を用いて、モンゴル文字をつくり出した。そして、しだいにモンゴル民族共同体は形成されていき、それまで部族名であった「モンゴル」は、民族名称に変わった。

 やがて、モンゴル族は南進あるいは西征し、前後してオゴタイ・ハン国、チャガタイ・ハン国、キプチャク・ハン国、イル・ハン国の四つの王国を建国し、吐蕃王国を帰順させ、西夏文字で有名な西夏王朝と北宋を滅ぼし、北方の契丹人、女真人、西のウイグル人、中原の漢族をモンゴル民族に融合させた。だがこうした民族の大融合の過程で、それぞれの集団の言葉や文字は、依然としてそれぞれの集団の間で使われていた。

 そのことは、逆にモンゴル語によって集団を支配・統治をするには不便であった。そこで文字を統一するために、フビライはモンゴル・ハン王を継いだのち、吐蕃王国の僧侶パスパに命じてチベット字母を基礎として、モンゴルの新しい文字をつくり出したのである。そして1269年、四角形に縦書きの表音モンゴル新字(パスパ文)を創造した。フビライは天下に「訳写一切文字」一訳はすべて文字を用いる一という詔勅を公布施行し、元来のモンゴル文字と併用するようになった。

 1360年代になり、明王朝によって兄王朝が滅ぼされると、モンゴル族は内部分裂し、各部族集団の間では絶え間なく戦争が起こり、集団群は分散した。その後、17世紀まで、モンゴル族は、おもに大砂漠の北方にある外モンゴル(現在のモンゴル国)、大砂漠の南方にある内モンゴルと、砂漠の西側のアルタイ山脈を越えたジュンガル盆地などの三地域に広く居住していた。

 やがて清王朝が成立すると、清王朝はこの三地域に対して、中国の郡県制のように行政区画を細分する盟族制度を実施し、全部で19のチョールガン(盟、数個の部族の連合)、196のホジョー(旗、部族集団)を設立して、多くの狭い牧場に分け統治を進めた。盟族制度の基本単位は旗で、モンゴル帝国時代の軍制単位にならって各部族長に土地と人々を与えた。196ある旗には7つのラマ族があり、その旗内ではすべての事務は、チベット仏教(ラマ教)寺院の僧侶が決定処理し、政治と宗教が一体となった統治形式を形成した。

 かつてモンゴル族は、シャーマニズムを厚く信仰していたが、13世紀の中頃以降にチベット仏教がモンゴル地域に伝わり、明・清両王朝時代を通じてモンゴル地域全域に急速に拡大した。そのため、各地に寺院が建ち、出家する若い僧侶がしだいに増えていった。チベット仏教はこのようにして、モンゴルの政治、経済、文化に人かつぷつきな影響を与え、仏はよみがえり不滅であるとする活仏転生制度も、モンゴル地域で確立した。活仏とは転生したラマをいう。チベット仏教高僧の転生、つまり生まれ変わりとされる。チベット仏教の主要な分派で、飲食、妻帯を禁止するなどきびしい戒律を持つ黄帽派(黄教)が、教権継承の方法として制度化されたとされる。高僧ラマが遺言で指定した地方に、一年以内に誕生した幼児のなかから神畏の備わっている者を選んだ転生者とした。それまでのシャーマニズムに源を持つとされるボン教は、チベット仏教に取って代わられ、チベット仏教がモンゴル族の共通の信仰となったのである。

 モンゴル族の起源に関しては、不明な部分が非常に多いが、そのおもなものには、匈奴説、チュルク説、吐蕃説、東胡鮮卑説がある。なかでも中国の研究者は、モンゴル族の起源は東胡にあると見る者が多い。その根拠は蒙兀室葦が契丹系統に所属し、言語は契丹語と似ており、服飾、弁髪や角号を使用する点など、その風習が鮮卑と同じであることにある。したがって、鮮卑、契丹、室章、モンゴルは、すべて東胡民族系に所属するとみなされるのである。

 しかし、唯一アルタイ地区に住み図瓦語を話すモンゴル人だけは、古代チュルク族と、唐努烏梁海地区、アルタイ地区の先住居住民が長期間生活をともにし、融合することで形成されたとされている。彼らは長期間にわたってモンゴル族の支配を受けたため、モンゴル語に精通し、モンゴル文字を使用している。また相互に婚姻を行ったり、チベット仏教を受け入れるなど、言語がわずかに異なること以外は、経済、文化、信仰、生活習慣など、モンゴル族との差異は比較的少ない。

 また、モンゴル族は彼らを「図瓦語を使うモンゴル人」と呼んで、モンゴル族と見ており、彼らもまたモンゴル族であると思っている。しかし本来は、彼らとモンゴル族とは同じ起源ではないと考えられている。

 モンゴル族の祖先は、中国初期の丁零までさかのぼることができる。17世紀には烏梁海人と呼ばれ、ロシアが中国領内に侵入したのち烏梁海人の大部分がロシア領の居住民となった。そしてモンゴル独立後は、モンゴル領内に居住する図凡人はモンゴル族の一部とみなされ、また中国新彊地域の図凡人も、図瓦語を使うモンゴル人となった。〔索〕

写真は「中国各民族」中国民族撮影芸術出版社による


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――――BBC世界の屋根探険会 烏里 烏沙 制作・2003年3月8日――――