Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

 

・イ(彝) 族 ・

 イ族は、総人口が657万8524人(1990年)で、中国の少数民族中第6位、イ語系の少数民族のなかでは最大の人口を有する。雲南省の楚雄イ族自治州や紅河ハニ族イ族自治州、四川省の涼山イ族自治州を中心に、貴州省や湖南省、広西チワン族自治区の山岳丘陵地などに広く分布し、一部はミャンマー、ベトナム北部、タイ北部などのインドシナ半島北部に至っている。

 中華人民共和国成立後に、はじめて1つの民族集団として統一された。すなわち、かつては羅羅、夷人、夷家と呼ばれ、蔑称の夷が通称であったのを彝に改めて民族名称と定めた。わが国においても「夷」を「エビス」とあずまえびす呼び、たとえば東夷といえば、東国に居住する武士のことで、京に住んでいた人々が、その無骨さをあざけって名づけた名称となっている。言語は多様で、六方言に大別されるが、互いにほとんど通じない。約1000年前に創作されたという音節文さん字曇文が、ヒモ(宗教職能者)によって伝えられている。ヒモは太鼓を叩いて精霊を呼び、その精霊と人間との仲介役を果たした。なおイ文は象形文字を母体とするが、大部分は同音仮借によってイ語の音節を示す音節文字である。叙事詩『阿詩瑪』や格言および祭祀などが、この文字によって記された。イ族の祖先は、黄河上流地域をその発祥の地とし、その後しだいに南下し、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達、定着したとされる。漢王朝時代には西南夷、三国時代には南蛮と総称された集団の主力部分を形成していたが、漢王朝時代から唐王朝時代にかけて奴隷制社会に入り、その勢力は強大となった。すなわち、唐王朝時代になると、雲南省東部には烏蕃と呼ばれる集団が、雲南省西部には白蕃と称される集団が形成されていった。烏蕃は、四川省西部から雲南省の山岳地帯に南進した騎馬牧畜民族で、現在の黒イやナシ族の祖先に該当すると考えられているチベット系の集団の総称である。一方、白蕃は、祖先がタイ系の水稲耕作民であったと推定され、早くから雲南省のいくつかの盆地に定住した。このいくつかの集団は、唐王朝時代には大理盆地に最も多く定着したとされ、現在の白イがその末裔とされる。

 その後、烏蕃の一部が征服王朝として、雲南の地に建なんしょう国したのが南詔王国である。南詔王国が滅亡したあと、分立状態がしばらくつづいたが、そのなかでも黒イの奴隷主階層は、自らの社会を維持するため、周辺の農耕諸民族などに対して、奴隷略奪の抗争や戦争を積極的に行った。そのため、奴隷階層のなかには、白イのほかに、たとえば、タイ系の民族やミャオ族、漢族なども含まれることになった。

 また黒イの男性は、自らのアイデンティティを保持するため、伝統的には、わが国のチョンマゲのような髭(天菩薩と呼ぶ)を結い、その上に黒いターバンを巻くことを常とした。そのため、髭を包んだ部分がふくれて、まるでアンテナのように角状に突き出ている。さらに、男性は黒いチャルワと称しているマントをはおり、正装時には長剣を腰につるした。この集団が黒イと称されているのはこの色によるとされる。また既婚女性も同様に、黒色のターバンを頭に巻いている。なお、黒イ集団は白イなどのイ族の他の集団と通婚しなかった。

 そこで、元、明、清の三王朝は、いずれも黒イを統制・支配することに、たいへん苦労を重ねた。すなわち、黒イ集団を筆頭にイ族は、元王朝時代になるとロロ(躍羅)と称されることになり、元王朝は羅羅斯宣慰司という行政官庁を特別に設置し、彼らの支配を試みた。つづく明王朝時代では、たえずロロが反乱を起こしたので、この反乱を鎮圧しようと、ロロの族長に世襲制の官位を与えて土司と称した。そして、この土司に一定の範囲内で彼らの自治権を認めた。そのうえで、彼らを四川省や雲南省の地方長官の管理下に置くという、いわばアメとムチの政策を実行した。

 さらに清王朝時代では、土司制度を全廃し、清王朝が直接派遣する地方官(流官)による支配、つまり改土帰流政策を強力に行った。この強行策は、四川省大涼山一帯に集結した黒イ集団以外に対してはいちおう成功し、ロロ社会は流官と一体となった地主階層による封建制へと移行した。

 一方、大涼山一帯に集中して居住する他の黒イ集団は、中華民国時代になっても黒イの奴隷主がその支配を強力に維持し、ロロ独立国とさえいわれるほどであった。その当時の様子は、大涼山の黒イ集団の結集地である四川省西昌市に開設されている奴隷社会博物館でも具体的に知ることができる。なお、これら二つの集団がイ族と呼ばれるようになったのは、中華人民共和国成立後のことである。

 イ族には多くの自称があるが、ノス(黒イ、四川大涼山など)、二(アシ、サニなど)、ロロホ・ララポ(白イ)の三大系統に大別される。このうちノス社会は、かつて大涼山が奴隷制社会であったことや、現在でも族長(家支)が一族の強固な結束力としてあることを特徴としている。なお家支は血統を意味し、始祖から父子連名制によってつながる父系親族集団である(父子連名制)。

 家支は数百戸単位で構成される。頭人を代表者とし、慣習法によって、もめごとを調停する徳古や、祭祀を司るヒモ、さらには病気の治療をするスニがいる。そのなかでヒモは、太鼓を叩き、神と人間の仲介をするシャーマンである。大涼山の奴隷制社会は、この家支を基盤として、支配層の黒イ諾蘇と、被支配層の曲諾や奴隷の阿加・岬西の階層に厳格に分けられていた。

 この点を少し補足すれば次のようになる。すなわちノスと呼ばれる黒イ集団は、大涼山周辺に居住するイ族の約10パーセントであった。この黒イ集団に支配される奴隷層は、チョゴ、アージャ、シャシの三階層に大きく区分されるが、白イ集団と総称された。チョゴは最上層に位置するものであるが、奴隷主に隷属しており、移動の自由はなかった。しかし、自らの家屋と子女を所有する権利は認められ、わずかであるが耕地と農具などを所有した。涼山イ族の約五〇パーセントを占めた。アーシャは、奴隷主の管内に家屋を持っていた。奴隷階層としては中間に位置し、チョゴ階層から落ち込んだものや、シャシ階層からはい上がった者も含まれていた。涼山のイ族の約30パーセント強を占めた。次のシャシ階層は家内奴隷で、人身の自由をまったく持たなかった。アーシャとシャシは戦争で囚われたり、さらわれたりした漢族など非イ族の人々も含まれていた。

 なお、イ族は平屋根の木造家屋に住み、部屋はすべて土間形式である。とくに日常生活の中心ともなる部屋には囲炉裏が切られ、鍋荘と呼ばれている。

 生業は、おもに山間部で、ソバ、エンバク、オオムギ、トウモロコシ、ジャガイモを栽培し、ヤギやブタなどの家畜を飼育するが、一部では牧畜も行っている。伝統的な主食はツアンパ(妙ったムギ粉を水で練ったもの)で、チベット族の食習慣に近い。アシ集団に見られる密枝と呼ばれる神木を崇拝する神樹信仰や、祖先祭祀、旧暦の6月24日に開催される火把節がさかんである。火把節は豊作を祈る祝祭で、歌垣も行われる。結婚に関しては、古くからイ族の青年男性は、イトコすなわち自分の両親の兄弟姉妹の子のうち、異性の兄弟姉妹を意味する交差イトコを嫁の候補とする習慣を持っていた。イ族社会にあっては、母親の兄弟は必ず別の氏族であり、同様に父親の姉妹は、他の氏族に嫁ぐのが原則となっていた。そのため、血族のなかでもこれに対して、交差イトコは他人とみなされたのである。親の同姓の兄弟姉妹同士の平行イトコ婚はきびしく禁じられていた。つまり平行イトコ、婚は、同じ氏族間の結婚と考えられたからである。

 葬式に関しても、ナシ族やプミ族と同様、伝統的には火葬の習慣を持っていた。この習慣は、高原に居住する遊牧民の世界観につながるもので、イ族の出自を考えるうえで参考になるものといえよう。しかし、火葬を行えるのは、燃料を十分に使用できる豊かな身分に限られ、そうでない人々は、鳥葬もしくは土葬を行った。

『中国少数民族事典』(東京堂出版 2001年)

 

写真は「中国各民族」中国民族撮影芸術出版社によるものである


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――――BBC世界の屋根探険会 烏里 烏沙 制作・2003年3月8日――――