Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

 

・チベット(藏)族 ・

 中国領内に住むチベット族の人口は、1990年の人口調査によると、459万3072人を記録している。そのうち90パーセントのチベット族は、チベット語を日常語として使用している。しかし方言差はいちじるしく、「それぞれの谷ごとに言葉がある」といわれるほどである。そのほかの10パーセントのチベット族は、チベット語以外の言語(非チベット語)を日常的に使用している。なおチベット族は、元来自らの居住する地域を次のように分けていた。

 1 チベット北東部の遊牧地帯アムド(青海)

 2 チベット東部の遊牧地帯カム(西康)

 3 チベット中央部のラサ地方ユイ(衛または前蔵)

 4 チベット南部の穀倉地帯ツァン(蔵または後蔵)

 5 チベット西部の遊牧地帯アリ(阿里)

 このうち、3のユイと4のツァンを合わせた地域が、シーツァンチベットの中央部に該当し、この地域を漢族は西蔵と称している。なお、現在のチベット自治区の範囲は、3、4、5と2のカムの西半分をその行政区域としている。

 たとえば、四川省アパチベット族チャン族自治州には10万人余りのチベット族がいるが、現在はチベット語の嘉絨(ギヤロン)語を使っている。また最近の資料によれば、四川省の新龍(シンロン)、雅江(ヤージヤン)、理塘(リータン)などの諸県では、7000人強の人々が都域(トウイ)語を使っており、道孚(ダオフー)、九龍(ジュウロン)、雅江などの各県では、約一万人余りの人々が木雅(ムーヤ)語を使っている。

 さらに、九龍、木里(ムーリ)、甘洛などの県では、約二万人余りの人々が尓蘇(アルス)語を使っているうえ、5000人余りが南義(ナンイ)()語を使っている。また、木里県には野興(シュシン)語を使用する2000人余りの人々がおり、平武(ピンウー)、南坪(ナンピン)などの諸県には、2000人余りの人々が貝馬(ペイマー)語を使っている。これ以外にも、チベット自治区察隅(チヤユイ)県では、数百人が燈(ドン)語を使用している。こうした非チベット語を日常語として使うチベット族は、その多くが四川省、甘粛省、青海省、雲南省など青蔵(チンツァン)高原周辺に居住している(青蔵高原「少数民族の自然的基盤」八頁参照)。これらの地域は、伝統的に古羌人グループの活動地区で、とくに山が険しく道路事情が悪いため、交通手段が発達しなかったという特殊な地理的条件によって、これらの独自の言語は長い間この地にとどまり、他地域には普及しなかった。

 非チベット語を話すといっても、これらの言語はすべてチベット語の影響を強く受け、語彙に関して、そのうちの三分の一がチベット語からの借用語であり、使用範囲は非常に狭い。そのため、いくつかの集落だけでしか使われていない言語もあり、居住地区を離れると、チベット語や漢語を交流の手段として用いている。

 言語発生学の分類では、これらの非チベット語は、チベット語とたいへん密接な関係にあり、すべてチベット語と関連を持つ言語となっている。そのため、チベット語と同様にチベット語系に属させるべきであるが、独立の言語といえるかどうかについては、今後の調査に待たねばならず、現在では定説というものが存在しない。しかしチベット語を話す人々であるか、あるいは非チベット語を話す人々であるかにかかわらず、すべて古代の先人各部族の末裔であるという点については疑う余地はない。

 チベット族の文字は、55を数える中国少数民族のなかでも歴史が古く、文字の記録は少なくとも1300年頃から始まっている。一部のチベット族研究者によれば、チベット文字については以下のとおりである。すなわち7世紀以前、チベット族は簡単な古い文字を持っていた。七世紀にソンツェン・カンポが吐蕃(とばん)王国を築いたあと、諸国の文字について考察を行うため大臣をインドヘ派遣し、帰国後サンスクリット文字(グプタ文字)の字体をもとに古チベット文字の規範改革を進め、現在使われている横書きの表音チベット文字を制定した。チベット文字制定の初期は、仏教の経典の翻訳を主としていたが、のちにチベット文字を用いて、宗教哲学、文学、芸術、天文暦算、医薬、工芸など、各種の学問を含む大量の著作を記述するまでに発展した。今日チベット語で書かれた文献の量の多さ、内容の該博さは、漢字に次いで第2位を占めるほどである。

 このように、チベット族は文字をあらゆる知識の源として大いに尊敬するという特色がある。なかでも、巻峡浩然の『チベット語大蔵経』は、甘味尓(カンキユル)経部、シャカの説法集)、丹珠尓(カンキユル)(論部、シャカの弟子の解説論集)という二大部分を包括し、4570種余りに達する経文を集め、世界の仏典宝庫のなかでも重要なものとなっている。というのは、これらの経文は、大部分をサンスクリット語の原典から直接翻訳したものであり、訳語が的確とされているからである。

 チベット族の起源については、以前はいくつもの説が存在した。しかし1970年代から、チベットの各地域から磨いて光る(磨光)打製石器、骨器、建築遺跡など、大量の石器時代の遺物が出土しつづけた。その結果、5000年以上も以前、青蔵高原にはすでに人間の生活が営まれていたことが証明された。すなわち、自ら先進文化を創造していたのである。

 漢籍史料の記載によれば、青蔵高原は古代の西羌人の遊牧地区であった。羌人の遊牧民の集落は150余りに達し、青蔵高原西部の辺境に分散していて、そのなかの発羌、唐羌などの集落は、中原から遠く離れた析支河西部の水源一帯であり、古代の西羌人がチベット族の祖先であろうと考えられている。ただ、漢語で書かれた史書には、羌人がチベットのどの地域に移動したかについての具体的な説明はなされておらず、方角を提示しているにとどまっている。またチベット語で書かれた多数の史書には、古くから神話伝説が記載されているが、その物語によれば、チベット族の祖先は神猿が変化したというもので、発祥地は、現在のツアージボー川南岸、沢当県一帯の雅隆(ヤーロン)地区であるとしている。現在、沢当県には神猿と女岩妖(女の岩の妖怪)が結婚したとされる洞窟遺跡が残されていることなどから、チベット族は本来土着の集団であると説明している。また、雅隆地区で発展した鶴提悉勃野部族は彼らの最古の祖先であり、この集落の第32代首領は吐蕃王国を築いたソンツェン・カンポである。

 7世紀初め、賛普(正)と公言していたソンツェン・カンポは、武力によって青蔵高原の種々の先人集団を相次いで征服し併合した。それらには、蘇砒(スーピー)(チベット北部)、羊同(ヤンドン)(チベット東北、青海中部)、白蘭(パイラン)(青海南部)、党項(タンシイアン)(青海東南、四川西北一、附国(フーグオ)(四川西部、チベット東部)などが含まれている。

 これらの集団の羌人は、のちにそのほとんどが吐蕃王国のチベット族グループに融合し、ふたたび独立することはなかった。そのすぐあと、吐蕃王国の国力は勢いを増し、相次いで唐王朝の河西隴右(現在の甘粛省、青海省)、安西四鎮(新彊ウイグル自治区)を占領し、多くの漢族や西域、あるいは南詔国の各集団を統治した。これら集団の住民の一部もチベット族に組み込まれたのである。このように拡張して融合する政策は、22世紀にモンゴル族が元王朝を建てるまでつづいたが、元王朝はチベット族地区をすべて中央政権の支配下におさめ、チベット族は単一民族として形成されていった。以後の漢族の史書には、吐蕃、西蕃、唐古特、蔵蕃などと呼ばれていた彼らの名称が記録されている。

 チベット族という名称は漢語の呼び名であり、チベット族はパ、ポエと自称している。しかし現在は、漢族はチベット族を蔵(ツァン)族、チベット地方を西蔵(シーツアン)と称している。また三大方言区のチベット族は、それぞれ異なった自称を持っている。

 たとえば、衛蔵(ウェイツァン)方言区のラサを中心とした前蔵(チエンツァン)ではツアンバ衛巴(ウェイバ)と自称し、日喀則(シガツェ)を中心とした後蔵(ホウツアン)では蔵巴と自称カムしている。康方言区のチベット東部と、四川省西部を包カンパアムド括するチベット族は康巴と名乗っている。安多方言区のチベット北部、四川省西北部、甘粛省南部、青海省地域を包括するチベット族は安多哇(アントウワ)と自称している。これらのチベット語の「巴」や「哇」は、すべて「人」を意味している。

 このように、三大方言区は自称が異なるだけでなく、歴代中央王朝がこの三大方言区に対して行った統治方式もまたそれぞれ違っている。元王朝時代には、中央政府は全チベット地区に、烏斯蔵、納里速、古魯孫という三つの宣慰司都元帥府を設立し、さらにその下にいくつかの万戸府を置き、西北、西南各省のチベット地区に分けて管轄した。明王朝時代になると、元王朝時代の統治管理制度を引き継ぎ、この三大方言区に異なる衛、所の地方軍事指揮組織を設け、チベット族を支配した。清王朝時代になると、チベットに地方政府(ガシア)を築き、駐チベット大臣を任命派遣し、ダライ・ラマと共同で地方を管理させ、西北(安多)、西南(康)チベット地区で、明王朝時代の土司制度に沿って、青海省に西寧・事大臣を設け、四川省に四川総監管理を置いた。

 清王朝時代末期には、これらの地区で改土帰流と称される土司、士官による統治をやめ、中央から来た役人(流官という)による直接統治を行う制度を強化して推進したが、やはりチベット族の土司頭人が直接統治地域を管理する古い慣習から抜け出すことはできなかった。全体的に見ると、康地区と安多地区は漢族地区と接しており、漢族の影響を比較的強く受けているが、衛蔵方言区は漢族地区から遠く離れていたため、民族固有の文化や伝統が比較的そのまま残っている。

 経済的には、三大方言区の生業形態は、基本的に農業と放牧を主としており、ともに入り混じっている。ツアージボー川中・下流の両岸の堤防より低い地帯と青海省湖環湖地区は、高原農業地区、四川省の多くの高山峡谷と青海省の一部は、半農半牧地区である。チベット族地区の草原牧場は、中国全体の牧場の約四分の一を占め、中国の牧畜業の一大基地となっている。

 特産物は、チベット綿羊、チベットヤギ、ヤク、ウマ、偏牛(ヤクとウシの雑種)である。とりわけヤクは体が大きく長毛で寒さに強いので、青蔵高原では重要な交通輸送手段であり、同時にチベット族に豊富な毛皮、ミルク、バターや各種乳製品、畜産物を提供している。

 チベット遊牧民の社会は、父系の氏族制度を持っているといわれる。しかし、この制度は他の少数民族ではあまり見られない独自の制度といえる。というのは、チベット遊牧民の各個人は、父親を意味する「骨」(リュイパ)と母親より受け継ぐ「肉」(シャ)によって成立しているとされている。

 つまり、各人は父親のリュイパを自分のリュイパとし、母親のシャを自分のシャと称するのであるが、母親の氏族をあらわすシャは、二親等を超えると消滅してしまう。そのため、彼らは父系の氏族制度を持つとされるのである。

 また、農業に従事するチベット族は、二頭立てのヤクで耕地を耕す双手黎新法という習慣を持っていた。栽培される作物はチンクームギが中心で、これが主食のツアンパの原料となる。

 ツアンパとは、チンクームギの粒を妙って粉にしたものである。このツアンパを木製の椀のなかに入れ、水や茶を加えて手で練って食べる。わが国で麦焦がしと呼ばれている食べ物に相当する。

 ツアンパとともに、チベット族が好んで飲むのがバター茶と称される飲料である。その製法は、・木か竹でつく.った茶筒に食塩とバターを入れて、よく撹絆してつくる。このように、野菜が極端に少ない青蔵高原では、茶葉は生活必需品であるが、気候条件などから、茶の栽培が不可能である。そのため、雲南省特産の茶葉を硬く円形あたんちやるいは方形に圧縮した礪茶が、畜産物との交易品として当地に輸送されている。また、チベットはチベット仏教(ラマ教)の発祥の地でもある。仏教が7世紀、チベットに伝えられたあと、もともとあった土着のシャーマニズム的な要素を持つボン教の信仰儀式を吸収し、長期的な融合を経て、しだいに独自の地方色を持つ大乗派仏教が形成された。

 すなわち、チベット仏教と称されているのは大乗派仏教である。日本や欧米では、このチベット化した大乗派仏教をラマ教と称することが多いが、「ラマ」とは本来高僧を意味するチベット語である。チベット仏教は多くの宗派を持ち、そのなかの黄教は、現在最大の勢力を持っている。黄教は、14世紀にアムドの聖者と呼ばれているツォン・カ・パが、古ラマ教ニンマワ(紅帽派あるいは古宗派と呼ばれる)を改革してつくった新教である。従来の赤い帽子の代わりに黄色い帽子を被る。そのため黄帽派と呼ばれることが多い。また粛正宗(ゲルクバ)派といわれることもある。

 なかでも、ダライ・ラマとパンチェン・ラマは黄教の二大活仏転生系統で、チベット最高の宗教指導者であり、チベット族のなかで高い威光と人望を有している。なお、黄教(おうきよう)と称するのは、漢族の呼び方である。同様に古ラマ教は紅教(こうきよう)と呼ばれる。

 17世紀になると、黄教の第5代ダライ・ラマがチベットの支配者となった。そのため黄教は、チベットの国家的地位を確立することとなった。チベット仏教は、チベット族の政治、経済、文化に深く広く影響を持つだけでなく、モンゴル族、トゥー族、メンバ族、ユーグ族などの居住地区にも伝わっており、これらの民族集団の信仰ともなっている。チベット近隣のいくつかの国家には、チベット仏教の信者がおり、東アジア地域に深遠な影響を持つチベット仏教文化圏を形成している。

チベット高原物語り・

・ チ ベ ッ ト 族 の 由 来 ・

 かの普陀山におわします観音菩薩が、神が姿を変えたサルに戒律をさずけました。そしてサルに、南の海から北の雪の高原に行き、修行をするよう命じたのです‥‥‥。

 サリはさっそくチベットのヤルルン河にやって来て、そこにある洞くつのなかで・慈悲の菩提心の修行をはじめました。サルが真剣な修行をして間もなくのこと、山のなかから女の魔物がでてきました。婆は邪淫な心から、サルにあからさまに求めました。

 「ねぇー、ど−お、二人でむすばれない!」 

 かのサルが応えます。

「それがしは観音菩薩の弟子であり、命により、ここで修行をしている者です。そんなことをすれば、それこそ戒律にそむくものです。あなたは、わたしに破戒をしろというのですか?」

 魔物の女は色っばく笑いながら、さらに迫ります。「それなら、仕方ありません。あたしは前世から、降されて妖魔にされました。でも、きっとご縁があったのでしょう、今日こうして、あなたにめぐり会い、恩人になってもらおうと思いました。でも‥‥‥、二人がどうしても、親しくなれないというのなら、あたしは、きっと老婆の悪魔になり、何万もの人を殺し、無数の悪魔の子どもを産むことになるでしょう、そうすれば、この雪の高原は悪魔の世界となり、さらに多くの人間が殺されることでしょう‥‥‥。ネー、もう一度、どうか考えなおしてちょうだい」

 サルは観音菩薩により、この世に降されてきたのです。女の話を聞いて、サルは心ひそかに思いました。

 「この女のいうとおり夫婦にでもなったら、それこそ破戒というものだ。しかし、それを拒めば、さらに大きな罪悪をもたらすやもしれない‥‥‥」

 ここまで考えたサルは、すぐまま普陀山にもどり、観音菩薩にあって相談しました。観音様もしばらく考えていましたが、口を開くと、このように指示されました。

 「それは天の意というもので、吉祥の兆しです。おまえは彼女といっしょになり、その雪の世界で人間を繁殖しなさい。これはお目出たいことですよ」

 菩薩は当然とばかりに、サルを励まし、勇気をもってすぐさま魔女と結婚するように勧めたのでした。こうしてサルはくだんの魔女とむすばれ、六匹の小ザルが誕生しました。その六匹は性格も情緒も、それぞれに異なっていました。菩薩の化身である親ザルは小ザルたちを引きつれて森に行き、果物をとるなど生活の方法を教えました‥‥‥。

 いつしか三年がたちました。親ザルは森へもどり、小ザルたちを訪ねました。驚いたことに、六匹の小ザルがすでに五百匹にも殖えているではありませんか。森はもう小さくなり、食物も不足して、サルたちはお腹をすかせていました。たくさんの孫ザルたちがやって来て、菩薩のサルに訴えます。

 「これからは、何をいったい食べればいいの?」

 小さな両手をひろげる孫ザルたちの姿は、いかにも悲惨でした。それを目のあたりしてサルは、心のなかで自問自答しました。「自分は、観音様の言われるようにしたのだが、こんなに子孫が殖えてしまっては、やはり大きな問題だ。自分の力では、どうにもできない。やはり、また観音様に相談するしかないだろう」

 サルはまたまた普陀山にもどりました。観音様がおっしゃいました。

 「心配はいりません。おまえの子孫たちは、わたしが養ってあげましょう」観音様はサルに命じて、須弥山に生えている天の五穀の種を、チベットにもちかえらせたのです。それを大地にまくと、耕さなくても、それぞれの種により、穀物がみのり、豊作となるのでした。こうして菩薩のサルは、小ザルや孫ザルに別れをつげ、もとの修行をしていた洞くつにもどりました。その後、多くのサルたちは食物に不自由することもなく、尾がしだいに短くなり、やがて人間の言葉を話すようになり、とうとう人間となったのです。これが雪の世界の先住民なのです。

『中国少数民族事典』(東京堂出版 2001年)


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――――BBC世界の屋根探険会 烏里 烏沙 制作・2003年3月8日――――