Gesanmedo ――Tibetan Highlands Elementary School Construction Fund NPO

チベットミニ知識・会報三号

 

チベットにもぐりこんだ日本人たち.2

 石原 静子

 前号〈その一〉では二〇世紀初め頃に、初めてチベット入りラサ入りした坊さん五人の、それぞれ個性的な生き方を紹介した。今回〈その二〉は、残る僧でない五人の物語である。仏法修行や経典持ち帰りでないどんな目的で、人びとは難路に挑んだのだろうか。

 五人の否十人中最年長は、明治維新直前に鹿児島で生まれた成田安輝で、陸軍幼年学校を出た軍人である。日清戦争後の一八九七(明治三十)年、政府の密命でチベット辺の情報を得るために大陸深く潜行した。機密文書には、当座の旅費や従者費用など合わせて七〇九円とあり、製鉄労働者の年収が二五〇円の時代だからかなりの高額である。おまけに翌年いよいよ入蔵間近として、法王他への豪華なみやげリストを外務省に提出している。

 能海たちと同様に四川省から入ろうとして失敗、インド経由に切りかえたが、ラサ入りはやっと一九〇一(明治三四)年、川口慧海より九ヶ月遅れで、滞在は二〜三週間だけ。しかもラサ入り直前に又々多額の資金を申請して、手ひどく値切られた。これで不足なら入蔵しなくてもいいから「早々帰国せよ」という返事で、どうも金づかいの割に成果の乏しいことに、政府が気づいたフシがある。その後はやはり情報将校として満州へ行き、一九一五(大正四)年客死。大陸浪人風軍人の典型で、薩摩士族のなれの果て、の感じである。

 正反対なのが成田よりずっと若い大正生まれで目中戦争中の一九三九(昭和十四)年に、関東軍からチベットに派遣された野元甚蔵である。偶然だが同じ鹿児島の但し農民出身で、農学校を出て満州に渡り蒙古語を学んでいたところ、軍の特務機関長にその実直さを見込まれた。任務は「チベットがどうなっているのか、できるだけ永く滞在して見てくればいい」というゆるやかなものだった。機関紹介の案内者もいてぶじインド経由で入蔵、ラサよりも主にその西方の小都市シガツェに滞在し、やがてバレかけてからはもっと田舎の農村に隠れ住んだ。

 これが野元には幸いだった。農民の目でチベットの農業や暮らしの実態を見て、報告書の形で詳細・貴重な記録を残したからである。ヤクを使った畑の土起こしから常食の青稗麥脱穀までさせる働き方は日本人の目に珍しかったし、エンドウ、ナタネなどの「種子を同時に混ぜて蒔く」粗放農業にも注目した。帰国ー敗戦後は郷里に戻り、農協支所長を務める七五歳の野元に、著者は直接会って話を聴いている。

 チベット潜行を承諾したとき、特務機関長が当時東北帝大にいた多田等観(その一参照)をたずねて助言を得るように命じた。等観はこの純朴な後輩に、チベットの情報や仏教、活仏のしくみなどを教えたあと、「いつどこでも人と交わるに誠をもってせよ、言葉の通わぬ野蛮人でも真心は通ずる」と語り、野元は胸に刻んだ。活仏といえば彼はラサの短い滞在中に偶然、現ダライ・ラマ十四世が、先年没した十三世の転生者として四歳で即位のため青海の生家からラサに移る行列と、出会っている。

 野元より二〜五歳若い二人、木村肥佐生と西川一三は、第二次大戦真只中に青春を迎えた。木村は熊本出身、当時内モンゴルに日本が創ってまもない興亜義塾に入った。「帝国ノ大陸国策ノ遂行ヲ完カラシメンガ為‥‥‥工作ニ従事スル志士的青年ノ養成ヲ使命トスル」学校で、学費無用で募集十五名、「蒙、中、露各語と西域地理・歴史ナド」を一年間学んで、「第一線ノ任務ニ服スルモノトス」。西川は一級下の三歳年長で、二人は政府の密命の下別々に行動したが、のちにラサで偶然再会することになる。

 密命は重慶の蒋介石への連合軍の物資補給路が、日本軍のビルマ侵攻後はシベリア経由の北からの道に変ったらしいので、その実態を探ることだった。二人は前後してモンゴル〜青海省ルートでチベットへ、「戸籍抹消して行くんだから、それなりの覚悟が必要だった」。〈その一〉の能海と、事情は違うが似た覚悟だったろう。

 木村のラサ入りは一九四五(昭和二〇)年九月、敗戦直後だがもちろん知らず、やがて風評に愕然、「心の支えを失った‥‥‥しかし帰る方法はない」。が同時に、「祖国日本への義務から解き放たれ、期せずして第二の漂泊を体験」となった。再会は同年十一月で、二人は一緒に東チベットなどを放浪の末、ヒマラヤを越えてインドに出、敗戦の確認と共に復興への歩みを知った。思い定めて名乗り出て、母国へ送還の船に乗ったのが、一九五〇年。彼らが後にしてきたチベットに、中国の大軍が侵入して占領、長年の敵イギリスがインドほかの植民地独立への対応で手一ぱいなのをいわば利しての武力併合をした、当の年である。

 二人のその後は、対照的である。木村はモンゴル語を学ぶ際その一方言に興味を持つなど元々學究肌で、西川は諸民族の暮らしそのものに関心のある生活派、潜行中も寺で最低位の僧の労働をしたり、物乞いのの群れに身を投じたりした。木村は学び直してのちに亜細亜大学教授となり、西川は盛岡で美・理容品を売る小さな店を持った。

 以上の四人は時代の流れの中、日本の大陸への野望に乗せられてチベットに赴いた人たちだが、最後の一人矢島保治郎は変っている。一八八三(明治十六)年群馬生まれでちょうど日露戦争に参加、旅順・奉天でも戦って軍曹で退役した、一九〇九(明治四二)年、世界一周無銭旅行を思い立ち、上海をふり出しに西藏、印度、トルコ、アフリカ、南米北米、ロシア、と回る十年計画が、「新聞に華々しく書き立てられた」。働きながら、康定、理塘の四川ルートでラサに達したのが翌々年。清朝末期のチ・中激戦期で、一般人を含む双方の死体が山積し野犬が食うに任せる「地上の地獄」を見た。チベット兵の軍規がまるでダメで、将も夜は家に帰って寝てしまう風なのに、日露戦の勇士はあきれた。やがてダライ・ラマ十三世が帰藏して、独立を宣言、しばしの平和となったとき、法王もチベット軍の改革・強化の必要を痛感、日露戦勇士の噂を伝え聞いて兵の訓練を頼むことになった。軍事専門家でもない一軍曹が五百人のチベット兵を指揮する成りゆきはユーモラスだが、本人は大得意。法王は賢明にも、日、英、露各適任者?に訓練を競わせることにし、一定期間後に首尾を比較するコンテスト閲兵をやった。結果は日・英が優秀だったが、「英国への気兼ねからか」英式はが採用となった。

 格好よく勢いのいい矢島を見込んで或る豪商が一人娘をと望んで来、結婚して男児が生まれた。ダライ・ラマの別称を音で「失敬して一子に『意志信』と名づけ」、意気揚々と妻子を連れて帰国した。が日本ではもう忘れられていて相手にされず、失意の矢島は「異郷に来た妻の心を充分思いやる金裕がな」い亭主関白だったから、孤立無援の妻はやがて二九歳の若死に。意志信は継母の手で成長したが、第二次大戦で応召、一九四三(昭和十八)年ニューギニアで戦死した。

 この本の終わり近くに、野元甚蔵とダライ・ラマ十四世再会の話がのっている。インドに亡命中の十四世が仏教者会議で来日した一九八〇(昭和五五)年、鹿児島にも寄られた際に、野本が昔幼い法王の行列を見た話をしたら、大いになつかしがられたという。その時の法王の講演にあった平和への提言を野元は「忘れることがない。『火が火を消すことができないと同じように、怒りが怒りを消すことはできません。火が水によって消されるのと同様、怒りはやさしさによって消すことができるのです』」。

                (二〇〇一年九月、アメリカのテロ報復準備ニュースを聞きながら)


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――――BBC世界の屋根探険会 烏里 烏沙 制作・2003年3月8日――――